荒ら野の鬼からの証言
2001
切り株、写真画像、布、アクリルボード、鈴、グラス、他
W.400cm, D.300cm
Pala Globe / 東京
[仮説芸術] 展
鬼はみな過去としての影を引き、そのいくつかには、つぶやき記されている。枝や根のない切り株は鬼の心情を象徴し、自ら空のグラスを満たそうとしている。
ひとりの鬼が人間として蘇生した瞬間
荒ら野に集まる鬼の後方にはこれまで蘇生した人々の肖像が重層している。
仮説《「荒ら野」は「鬼」が人として蘇生するところである。》
旧約聖書の中での「荒ら野」は、苛酷な試練や死の場としての一面と、他方、何かを生み出す、何かと出会うなど、転機となる出来事が起こる場の面を持っている。私が興味を感じた後者について例をあげてみると、イスラエルの祖であるアブラハムは、召使いハガルとの間にイシュマエルが生まれたが、母子共に追放した。ふたりは「荒ら野」をさ迷ったあげく息子はイスラームとしてアラブ人の祖先となる。また、エジプトから脱出して先祖の国をめざしたモーセが神に出会い、十戒を授かったのも「荒ら野」であった。このように、ある共同体の正秩序の外である周縁において、より創造的な事柄が起こり得るのではないか。
私の設定する「荒ら野」は、現実社会の中で疎外感を感じる者(自らを「鬼」と思い込む者)が辿り着き、しばし俗世から解放され浄化されて自らを再生するための、それぞれの心の内にある原野である。今や現実社会での日常が試練の場と化し、「荒ら野」の苛酷さの面を充分に担っている。そこで「荒ら野」は蘇生の場の役割だけを担う。不要のものを払い落とした「鬼」たちは、晴れ晴れとして互いの再生を祝う。
今もまさに、ひとりの「鬼」が蘇り・・・・
(「仮説芸術」展は、参加アーティストが独自の仮説を立てて表現する企画)
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