時の水鏡#0610

鋳物の行程では、不要の製品は溶かされて新たな形に生まれ変わる。私はこの鋳物という素材に、生命体の死と再生による種の存続や、変化し続ける街、軌道をめぐる惑星の運行など、人間を含む多様な時間のサイクルを象徴させた。ガラス壁のハーフミラーによって鋳物の連なりが環となり、環は街に溶け込みつつ街を室内に引き込む。鋳物に満たした水やオイルの小宇宙も、風景を映し、時を移す。生命や環境や時間の器のようなこの環が、行き交う人々や車、商店のネオン、空や雨の波紋などをのせて、ゆっくりと廻るように感じた。

秋日・2006年
平井亮一
(美術評論家)

石膏どりされた一対の足の背後にはガラスごしのハーフミラーがひかえ、これが室内そのままを対称的に映しているので、ここでは内と外とにわたる場所の形体上知覚上の複合効果が意図されているとともに、石膏像はあの水映りとで、ひとがそこを出入りすることのあれこれを集約しているように思えた。そうであるなら、この照応は、この場所が視覚にかかわるとともに意味にも結ばれていることをいっそうあきらかにしている。そのかわり、足の石膏像じたいがこの設営にそれとわかるあきらかな意味の輪郭をあたえながらも、いっぽうでそれをただちに崩しことがらをずらしてゆく両面性をもっているようにもみえた。つややかな石膏の白さが知覚にとどめる残響さえも、設営の様態を幾重にも屈折させてゆくからである。そういえばすでに彼女は、周到な手当てのもと、ばらばらにくだかれた石膏の破片の散在と足の石膏像とのはざまで、物質であることと像であることとの微妙な臨界点をかいまみていたはずである(「わかり合うということ」2006)。おそらく、いかにさしせまった現実認識を営為の契機にしても、設営、つまり物や場所の媒体化は、ついにはその実践形式としてひとびとの前にあらわれるにすぎない。それなら、「他者との共存」という環境理念も、静かに時を映しつづけておぼめく「水鏡」、それをめぐる設営形式をこうして美しくとどめえたことをともあれ観客はよみすべきであろう。

『Between ECO & EGO 2006 記録集』評論「秋日・2006年」より抜粋