遠くからの声#0405

日常光景を見ていて、私は俯瞰したこの世界を想像することがある。眼下に見える日々を生きる人々の蟻のように小さな健気な姿。いとおしさ。人間は皆、夢や欲求を持った個人だが、同時に、ヒトという生物であることの普遍的な側面も見えてくる。この春、義父が他界した。病によって心身機能を次々と失いながら、”人間”という概念の窮みに挑むかのような闘病の果ての、ひとつの命の幕引きをみつめ、私は自問する。人間とは何か、と。(作品コンセプトとして)

手の河による人間の命の時間的連鎖は、窓から望める現実の人々の往来と交差し、向かい合う鏡によって過去と未来の双方向へ突き抜ける。人間が命と英知を未来に託すとき、不寛容という負の経験から何を伝えられるだろうか? 人間はEGOがあるから生きられ、清濁合わせ持ち葛藤するから人間らしく、そのような己を知り、他者や生態系の中での共生の道を真摯に探ることではないか。
作品の音響では、今年他界した義父の声が、精霊に成り代わって呼びかける。
「・・ここはどこだね? ああ、いいところだね・・ありがとう・・。」
作品を展示した鋳物工場の暗がりに、川口の街に、地球に注ぐこの声に何と答えよう。
(Between ECO & EGO 記録集のコメントより抜粋)

「エコとエゴのはざまで 街と芸術の再生」

丸山芳子の《遠くからの声》。川口の人々から型取りされた多くの石膏の手が床から生えているように並んでいた。手こそはホモ・ファーベル(作るもの)としての人間を象徴する。その周囲を、青い色彩の中から浮かび上がるような人々の面影が取り巻いている。そこがかつてキューポラだったという部屋には、人々の気配を増幅するような街の喧騒が流されて、人間の痕跡としての物質は、ほとんど廃虚のように存在することを強く印象づけた。窓から遠くの道を行く人々が望める。その眺めと、配置された鏡に映る自分の虚像によって、実在の人間と心の中の人間と、どちらが真実の姿なのかを揺さぶられる装置のようだ。そして、その往復運動の果てに実体と記憶が混ぜ合わされ、その中間に天使的な新たな人間像が生まれるのだろう。

小泉晋弥(美術評論)
「Between ECO & EGO 2004」記録集より抜粋