荒ら野の鬼からの証言

仮説《「荒ら野」は「鬼」が人として蘇生するところである。》

旧約聖書の中での「荒ら野」は、苛酷な試練や死の場としての一面と、他方、何かを生み出す、何かと出会うなど、転機となる出来事が起こる場の面を持っている。私が興味を感じた後者について例をあげてみると、イスラエルの祖であるアブラハムは、召使いハガルとの間にイシュマエルが生まれたが、母子共に追放した。ふたりは「荒ら野」をさ迷ったあげく息子はイスラームとしてアラブ人の祖先となる。また、エジプトから脱出して先祖の国をめざしたモーセが神に出会い、十戒を授かったのも「荒ら野」であった。このように、ある共同体の正秩序の外である周縁において、より創造的な事柄が起こり得るのではないか。
私の設定する「荒ら野」は、現実社会の中で疎外感を感じる者(自らを「鬼」と思い込む者)が辿り着き、しばし俗世から解放され浄化されて自らを再生するための、それぞれの心の内にある原野である。今や現実社会での日常が試練の場と化し、「荒ら野」の苛酷さの面を充分に担っている。そこで「荒ら野」は蘇生の場の役割だけを担う。不要のものを払い落とした「鬼」たちは、晴れ晴れとして互いの再生を祝う。
今もまさに、ひとりの「鬼」が蘇り・・・・

(「仮説芸術」展は、参加アーティストが独自の仮説を立てて表現する企画)